「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也…」
この冒頭文で知られる松尾芭蕉の『おくのほそ道』。今から三二〇年ほど前、江戸深川を旅立った俳聖・松尾芭蕉とその門人・河合曽良の旅は、五百年忌を迎えていた西行をはじめ、古の歌人の足跡を訪ねる旅であり、また、三十一歳にして没した悲運の将・源義経を追慕する旅だったといいます。
中山平温泉に残されている古道は、道標や地図には「出羽仙台街道中山越」とも表記されていますが、正式名称は『出羽街道中山越』といいます。「出羽仙台街道」は、奥州街道吉岡宿から分かれて、中新田、岩出山、鳴子を経て出羽に至る峠越の道。元禄二年(一六八九)奥州行脚に旅立った芭蕉は、平泉から引き返し、仙台藩から出羽に出ようとしてこの道を通ったと「おくのほそ道」に記しています。この街道は、義経の時代から軍事上の要衝として知られ、渓谷に橋を架けることもなく旅人たちがたどったルートであり、「中山越」は最大の難所でした。
松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立ったのは一六八九年、芭蕉四十六歳、曾良四十歳の時でした。深川からの旅を続け二人が仙台藩に入ったのは今の暦でいうと五月のこと。さらに、仙台~宮城野~塩釜~松島~石巻を経て一路平泉へと足を運び、再び南下して、岩出山に入ったのが六月の末でした。岩出山を七月一日に出立した芭蕉と曽良は、たどりついた「尿前の関」できびしい取締りにあい、ようやく通行を許可された芭蕉は、鳴子の湯に浸かる余裕もなく、そそくさと難所の「中山越」に足を進め、その日のうちに出羽の堺田に着いています。(参考文献:鳴子町史 上・下巻)
尿前の関から小深沢
芭蕉と曽良が鳴子を訪れたのは1689年7月1日(元禄2年、旧暦5月15日)。「おくのほそ道」の旅に出てから47日目のことだった。しかし尿前の関にたどりついたものの通行手形(今でいうパスポート)を持っていなかったため、関守に怪しまれてなかなか通過を許されなかったという。前夜は、奥州では知人もいない心細さから、まさに「道の奥」であり「細道」であることを強く実感していた記述が見られる。紀行文「おくのほそ道」の冒頭の一文に詠われているのは、『すべては旅に似ている』という芭蕉が抱く人生観である。芭蕉が通過するのに苦労したこの関所跡が、出羽街道中山越、小深沢に至る道のスタート。芭蕉が訪れた6~7月には、関跡の広場に建てられた芭蕉像の傍らにツツジが咲き誇る。(参考文献:鳴子町史 上・下巻)
小深沢から大深沢・中山宿跡へ
芭蕉と曽良が中山平を越える少し前に仙台藩が尿前の関を整備したという。それというのも日本海側と太平洋側を隔てる奥羽山脈越えの中でも「出羽街道中山越」は標高が低く、比較的越えやすいところだったため。古くは大崎氏の時代から、当時の仙台藩にとっても軍事的な要衝として守りの要だった。そのため藩政時代は沢を越える道にも橋を架けることなく、旅人には難所として知られていた。現在、小深沢・大深沢の沢越えのポイントには、板の橋が架けられているが、芭蕉と曽良が歩いた当時はこれもなく、けもの道のようなわずかな踏み跡を頼りに歩いたという。義経一行もたどったという山道らしいが、曽良と二人だけではさぞかし心細い道行だったことだろう。今この道を歩いても、その心細さを感じることはできないが、往時のことを思うと確かに難所だったろうと思われる。うっそうと茂るブナ、クリ、ナラやカエデといった木々の枝葉が陽の光を遮る道を抜けると、芭蕉が訪れた当時と変わらないと思われる美しい風景が現れる。ここが難所「大深沢越え」とはちょっと信じられないスポットとなっている。沢の周辺に差し込む光の中で苔むした石が、『古道』の趣を強く語りかけてくる。
山神社から軽井沢・封人の家へ(軽井沢コース)
出羽街道中山越のルートの中で一番歩きやすく、周辺のロケーションが変化に富んでいるのが軽井沢コース。中山宿跡からすぐに山神社があり、そこから続くうっそうとした杉木立の道はまるで時代劇の街道筋のような趣がある。その木立を通りすぎて坂を上ると眺めは一転し西原ののどかな農道が続き、晴天なら陽の光を存分に受けながら約1.3キロ先の軽井沢越え入り口までトレッキングが楽しめる。軽井沢越えの森の中に分け入ると、また道の表情が変わり、なだらかな起伏と腐葉土の柔らかさがシューズの下から伝わり足取りも軽くなる。軽井沢コースの特徴は、このゆるやかな起伏が続く道を陽ざしが照らしている明るさだろうか。小深沢・大深沢のうっそうとした原生林を歩くのとは違い、明るい。スギゴケが道のいたるところに生えており、それらが木もれ日に照らされる光景はとてもすがすがしい。そのためか、軽井沢にはベンチや東屋が多く、木々を渡る風を感じ、鳥の声を聞きながらのひとやすみも格別。